
男は傍らの大木の幹に手を掛け、息をついた。
降りかかる木漏れ日が風に揺れる。……その陰で、小さな寺が緑に埋もれていた。苔の屋根を葺いたそれは、退廃へと向かいながらも溢れる光を受けて静かに息衝いている。
――また来たのか。
「手土産は何もないがな」
眼前に居座る銀狐に苦笑した。降り注ぐ緑光を体表面に纏わり付かせ、尾の先でその光と戯れている。滑らかな毛並みに埋もれるような両の蒼い目は、今も泉界の淵を覗いているのだろうか。
男は銀狐の傍らに腰を下ろした。
此処は泉界との狭間であった。聖域の最奥で歳月を重ね、そして朽ちてゆく。消滅の時を迎えられないまま、際限なく朽ちてゆく。……もう男の外に此処の存在を知る者すらいない。
ただ緩やかな時の中。思索に沈んでいた男は、銀狐が立ち上がったことに気付き、ふっと現実に立ち返った。
中天を過ぎたばかりの陽光が、翳る。束の間の薄闇。風が吹き抜ける。
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降りかかる木漏れ日が風に揺れる。……その陰で、小さな寺が緑に埋もれていた。苔の屋根を葺いたそれは、退廃へと向かいながらも溢れる光を受けて静かに息衝いている。
――また来たのか。
「手土産は何もないがな」
眼前に居座る銀狐に苦笑した。降り注ぐ緑光を体表面に纏わり付かせ、尾の先でその光と戯れている。滑らかな毛並みに埋もれるような両の蒼い目は、今も泉界の淵を覗いているのだろうか。
男は銀狐の傍らに腰を下ろした。
此処は泉界との狭間であった。聖域の最奥で歳月を重ね、そして朽ちてゆく。消滅の時を迎えられないまま、際限なく朽ちてゆく。……もう男の外に此処の存在を知る者すらいない。
ただ緩やかな時の中。思索に沈んでいた男は、銀狐が立ち上がったことに気付き、ふっと現実に立ち返った。
中天を過ぎたばかりの陽光が、翳る。束の間の薄闇。風が吹き抜ける。
狐火。宙に踊りあがった銀狐の傍らに小さな灯が灯る。
それは明滅を繰り返す。それは僅かに震える。それはあまりにも儚く揺れる。
灯火が狐の毛に踊り――風が嘶き、木々が奏でる――小さな、獣の形をした光が舞う。
銀狐がその灯火を尾で跳ね上げ、飛び乗り――風が渦を巻く――口に咥える。それに抗うように灯火は、天へと駆け上がっていった。途中でさん、と物悲しい音を一つ残して。
「逝ったか」
再び、陽光が大地に注ぎ始める。風が光を揺らめかせて去ってゆく。
――随分、気忙しい奴だったな。
牙を覗かせ、銀狐は笑む。
「そうか」
顔は知らない。会社の同僚の親族だ。ただ死に行き会ったから、此処に来た。
享年61。病死だったらしい。……そいつは、自分の知らない『死』へと落ちていった。
「死とは、何だ」
銀狐が泉界を覗き込んだ目で、男を見上げた。底の見えない瞳に、どう泉界は映るのか。……泉界との狭間に足を踏み入れるようになって、純粋に興味が湧いた。
霊魂。輪廻転生。それとも、消滅か。
誰も真実を知りえないそれ。けれども、いつかは誰もが手にするもの。しかし、それを手にした時、それを認識する自己は存在しているのか。
――死ねば分かるだろう。
自嘲。「そうだな」
男は立ち上がって、尻に付いた土塊を払った。また来るよ、と手を振る。銀狐は頷き、その体を閃かせて、ゆったりと寺へ戻っていった。
そしてまたこの狭間の場所は、際限なく朽ちてゆく。
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